第七課 クリスチャン振る舞い

Qクリスチャンはどのように、しなければならないことと、してはなならいこととの区別が分かるのでしょうか。キリストを信じている日本人は、映画を見に行って、パチンコをやって、たばこを吸って、酒を飲んで、この世のほかの楽しみに参加してもいいでしょうか。

Aまず、重要な次の点を思い出してください。人は悪いことを避けて、良い行ないをすることによって天国にある永遠のいのちを得ることは出来ません(エペソ 2:8-9)。人は信仰によってイエス・キリストの福音を信じて、受け入れることによってのみ救われるのです(ローマ 3:23-28 )。人がキリストを受け入れるとき、新しく造られた者になり、(コリント第二 5:17)、その新しい人生の証拠として、新しい振る舞いも現われるのは当然のことです。
多くのクリスチャン若者は上記の活動と似ているほかのことについて心配しています。聖書に色々な行ないが明らかに禁止されています。しかし、ある行ないについては明確に書いてない場合もあります。この第七課の目的は、あなたが疑わしい活動に参加すべきかどうか決定するのを助けるガイドラインを与えることです。

 最初に、その活動は、神がクリスチャンに禁止されたことですか。もし神が聖書ではっきりと禁止されたならば、疫病のようにその活動を避けなければなりません。ある活動が聖書で禁止されたことであるかどうか分からないならば、調べて確かめるまで、その活動をしない方が良いのです(テサロニケ第一 5:22 )。

 
次に、その活動は神の聖なる御名を汚しませんか。コリント第一10:31 には次のように書かれています。「何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」あなたは疑わしい活動に参加する前に、その活動によって神の御名が誉めたたえられると信じますか。覚えてください。「クリスチャン」あるいは「キリスト者」という言葉の意味は「キリストに似ている者」なのです。もしあなたは、「私はクリスチャンです。」と言うならば、人の前であなたの言うことも、行なうこともすべてがキリストの御名を誉めたたえるか、それとも、キリストの御名を汚すかのどちらかなのです。

 その活動は世俗的なことですか。そうならば、キリストから出ていることではありません。イエスはご自分の弟子たちについてこう言われました。「わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。」(ヨハネ 17:16 ) 。キリストは決して「この世のもの」ではあられませんでした。キリストはこの世におられましたが、決してこの世のものではあられませんでした(ヨハネ第一 2:15-17 )。

 主イエス・キリストは地上におられた間に、もしその活動に参加する機会があったら、イエスはそれに参加されたでしょうか。イエスは、私たちがイエスの足跡に従うように、私たちに模範を残されました(ペテロ第一2:21)。

 あなたは、イエスがクリスチャンたちをみな天国に引き上げられるために帰って来られるときに、その活動をしているところを見られたいですか。だれかが賢くこう言いました。「キリストがお帰りになるちょうどそのとき、恥ずかしく思うようなことばや行為があったり、場所にいたりしてはいけません。」(ヨハネ第一 2:28をご覧ください)。

 あなたは、神である聖霊があなたのうちに住まれると認めながら、良心に恥じるところがなく、その活動に参加することが出来ますか「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」(コリント第一6:19)。

 その活動は、神の子どもにふさわしい振る舞いですか。王の息子は威厳がなく、正しく振る舞わないとき、自分の父親に恥をかかせるのです。同じように、クリスチャンは正しく振る舞わないとき、神の御名に恥を引き起こしてしまうのです(ローマ 2:24、コロサイ1:10)。

 
その活動に参加すれば、他の人にどのような影響を与えるでしょうか。まだキリストを信じていない人々に対する良い証しですか、それとも彼らがクリスチャンと不信者との区別はないと思うことを起こすのですか(コリント第二 5:17)。それに、キリストを信じたばかりの若いクリスチャンにつまずかせることにはなりませんか。本当のクリスチャンはほかのクリスチャン(兄弟と呼ばれる)のクリスチャン生活の成長を決して妨げたり、つまずかせたりしてはいけません(ローマ 14:13)。

 最後に、その活動について、あなたの心には不安とか疑いがありませんか。あれば、参加してはいけません。「疑いを感じる人が」(そのことをする)「なら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。」(ローマ 14:23)。

この主題、すなわち、しなければならないことと、してはならないこととの区別を考えながら、クリスチャンが「律法の下にはなく、恵みの下にある」ということを覚えてください(ローマ 6:14-15)。それは、クリスチャンがやりたいことを何でも行なっても良いという意味ではなく、むしろクリスチャンは恵み深い神からの永遠のいのちを頂いたのですから、神を喜ばせることを感謝の心から行ないたいと考えるべきです。クリスチャンの私たちが世俗的な罪の楽しみを避けるのは、それを自発的に避けたいと考えるからであるべきです。なぜなら、キリストは私たちのために死んで下さったのですから、私たちはキリストを喜ばせる生活をしたいと思うようになるからです(コリント第二5:14-15)。神は、人が世俗的な罪の楽しみを避けるならばクリスチャンである、と言われたのではありません。けれども、神はキリストを信じたすべての人にこう言われます。「あなたはクリスチャンです。『召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい』」(エペソ4:1)。自分の罪から救われたクリスチャンが一時的に自分の地位を忘れ、身を落として、しばらくこの世の罪に戻ってしまう可能性があります。このような場合、羊飼いが杖を使って強情な羊を群れに帰すことと同じように、神は厳しい愛によって、罪を犯しているクリスチャンを懲らしめられるのです。それゆえに、あるクリスチャンは一時的に神の恵みを忘れるならば、神の懲らしめによって、もう一度従順な生活に導かれます。

第七課の試験